太平洋戦争史ざっくり振り返り

靖国神社

こんにちは!こ〜たろうです。

今日は太平洋戦争をざっくりと振り返りたいと思います。

大戦の呼称

現在は盧溝橋事件から太平洋戦争勃発までを日中戦争(1937年7月〜1941年12月)、1985年8月の終戦までを太平洋戦争と名付けているが、当時は盧溝橋事件で始まる紛争を支那事変、大戦開始以降は支那事変を含み大東亜戦争と名付けていた。

開戦まで

1937年7月7日:盧溝橋事件。

7月29日:通州事件(つうしゅうじけん)。通州守備隊が留守の間に居留民など200人以上が中国軍に虐殺された。

1939年9月1日:ドイツがポーランドに侵攻。イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦勃発。

1940年9月27日:日独伊三国同盟成立。

10月16日:米英が鉄屑対日禁輸決定。

1941年4月13日:日ソ中立条約締結。

7月25日:在米日本資産凍結。

7月28日:日本軍が南部仏印(ベトナム・カンボジア・ラオス)に進駐。

8月1日:米英蘭が対日石油輸出禁止。当時の石油輸入先の9割はアメリカとオランダ(現インドネシア)であった。石油の備蓄は2年分しかなかったため早期開戦をせまられた。

9月6日:御前会議で英米蘭戦が決定。憲法上意見が言えない昭和天皇は明治天皇の御製(ぎょせい)を読み、暗に戦争反対を訴えた。

10月18日:近衛内閣総辞職に伴い東條内閣成立。

11月26日:ハル・ノート提示。日本軍の全面撤退と三国同盟破棄など最後通牒的な内容であった。

12月8日:英米蘭に宣戦布告。

宣戦布告の遅れ

1941年12月8日、日本時間での経過。

2時15分:イギリス領マレー半島コタバルに上陸し英印軍と交戦。

3時19分:真珠湾攻撃開始。

4時20分:ハル国務長官に対米覚書を渡す。3時に渡す予定だったが翻訳・タイプに手間取ったとも言われている。

7時30分:外務省でイギリス大使に覚書を渡す。

同日:オランダが日本に宣戦布告。

12月10日:中華民国が日本に宣戦布告(支那事変は宣戦布告のない戦いだった)。

12月11日:ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告。

真珠湾攻撃

世界初の航空機動部隊による奇襲攻撃で、戦艦2隻、巡洋艦3隻、空母6隻、戦闘機120機、攻撃機144機、爆撃機135機、計399機など一大戦力での作戦だった。

ゼロ戦写真

1941年12月8日:第一次攻撃隊(183機)、第二次攻撃隊(163機)により戦艦3隻撃沈、2隻大破、巡洋艦2隻大破、駆逐艦2隻大破、航空機188機破壊、155機損傷、米兵2345人戦死など壊滅的な打撃を与えるも、再攻撃をせず空母、ドック、石油タンクを攻撃できなかったため、米軍の早期建て直しを許してしまった。

また、攻撃を事前に知っていたルーズベルト大統領は空母エンタープライズ等近代的な軍艦と戦闘機をウェークやミッドウェーに移動させていたとも言われている。

マレー半島攻略戦

イギリス東洋艦隊の拠点であるシンガポールを攻略するためマレー半島を陸路南下する作戦をとった。

1941年12月8日:マレー半島北部に上陸した山下中将率いる第25軍はイギリス軍・オーストラリア軍を破りながらシンガポールに向かい1100キロの道のりを自転車で移動した。

1942年1月31日:ジョホールバルを占領。

2月9日:シンガポール上陸作戦開始。日本軍の砲弾が切れたタイミングで英軍パーシバル中将から降伏申し入れ。

マレー沖海戦

1941年12月10日:シンガポール防衛のためマレー沖に派遣されていたイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスに対し、サイゴン(ホーチミン)から85機の陸上攻撃機隊で攻撃し撃沈。航行中の戦艦を航空機で沈めたのは世界初のことだった。

フィリピン攻略戦

インドネシアから石油を運ぶ海上輸送路確保のためアメリカ領だったフィリピン攻略作戦を実施。

1941年12月8日:台湾からルソン島米軍飛行場への攻撃開始。上空で待機していた米軍機が燃料切れで飛行場に戻ったタイミングで天候不順のため発進が遅れた日本軍機が到着。米軍機100機以上を撃破し1週間で制空権を握った。

12月10日:本間中将率いる第14軍がルソン島に上陸。

1942年1月2日:米軍がマニラの西にあるバターン半島に移動したため、マニラを無血占領。

3月12日:マッカーサー司令官が家族を連れオーストラリアにアイシャルリターンと言って脱出。10万人の将兵は置き去りにされた。

4月9日:バターン半島攻略。長期の籠城により食料や医薬品が尽きたところに爆撃と大砲による総攻撃をかけたところで米軍は降伏した。

10万人近い米兵と難民を60km先の収容所へ運ぶ手段がなかったため徒歩で移動するしかなかったが、移動中に1万人以上もの死者が出てしまう。バターン死の行進と呼ばれ日本軍の惨虐行為として非難されたが、降伏時点で食糧が尽きていたうえ炎天下にマラリアや赤痢も蔓延していた状況だったことも考慮すると降伏が遅すぎたともいえる。また、移動手段が発達していなかった当時、60kmくらいは歩くのが普通だった。

5月7日:バターン半島から大量の砲弾を撃ち込みコレヒドール島攻略。

香港攻略戦

1941年12月9日:九龍半島に奇襲攻撃。

13日:九龍半島全域を攻略。

18日:香港島に上陸。

25日:英軍降伏。英軍の捕虜は1万1000人にのぼった。

ビルマ攻略戦

イギリスの植民地だったビルマ(ミャンマー)には重慶に物資を運ぶビルマルートがあった。

1942年1月20日:ビルマルート遮断のため飯田中将率いる第15軍がビルマ独立義勇軍と共にタイからビルマに侵攻。

3月8日:英軍が撤退したためラングーンを無血占領。

4月5日〜9日:南雲中将率いる第一航空艦隊によりセイロン島の英巡洋艦2隻・空母1隻を撃沈。

5月8日:ビルマ全域を占領。英軍はインドのインパールに撤退。

この頃から中国への物資輸送は空路になっていたためルートの遮断効果はなかった。

オランダ領東インド攻略戦

オランダ領東インド(インドネシア)には豊富な石油資源があったが、1603年以来オランダによる過酷な植民地支配を受けていた。日本は石油確保のためインドネシア各島の攻略を開始した。

1942年1月10日:今村中将率いる第16軍がボルネオ島に上陸。1ヶ月でボルネオ島占領。

1月11日〜15日:メナドとパレンバンにパラシュート部隊による奇襲落下作戦実施。無傷の油田を手に入れる。

3月1日:第16軍がジャワ島に上陸。オランダ軍は8万人もいたが戦意に乏しく援軍の見込みもないため3月8日全面降伏。

アメリカ本土を砲撃

1942年2月:潜水艦でカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油精製所を砲撃。

6月:潜水艦でオレゴン州フォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃。

9月:オレゴン州森林を焼夷弾で空襲。

本土空襲

1942年4月18日:東京の東1200kmまで近づいた空母ホーネットから飛び立った16機のB25爆撃機が東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を攻撃し、中国方面に抜けていった。

珊瑚海海戦

ポートモレスビー攻略中の部隊への海上輸送を援護していた井上中将率いる第四艦隊と待ち伏せしていた米機動部隊との戦いで、世界初の空母対決となった。

1942年5月7日:米空母レキシントンとヨークタウンの艦載機による攻撃のため軽空母祥鳳が沈没。しかし、敵艦を見つけることができなかった。

5月8日:ようやく敵空母を発見し攻撃機69機が向かう。途中日本の空母に向かう敵攻撃隊とすれ違うも敵攻撃を優先。レキシントンを沈没、ヨークタウンを大破(修理後ミッドウェーに参戦)。日本側も翔鶴を大破され痛み分けとなったが、ポートモレスビー攻略は断念。

ミッドウェー開戦

作戦の目的はミッドウェー基地を攻撃することで米機動部隊を誘い出し空母を叩くことでしたが、現場指揮官の南雲中将にうまく伝わらずミッドウェー基地攻略を優先してしまったと言われている。

米軍は暗号解読により事前に察知。空母3隻がミッドウェーの北東で待ち構えていた。

1942年5月27日:米空母を討つため南雲中将率いる第一機動部隊が広島湾の柱島から出港。

1942年6月5日、ミッドウェー海戦の経過。

3時45分:第一次攻撃隊108機がミッドウェー航空基地を攻撃。米艦隊は不在だったものの二次攻撃を本隊に打電。

4時15分:待機中の航空部隊の装備を艦隊攻撃用(魚雷)から地上攻撃用(爆弾)に変更作業開始。

4時28分:索敵機より敵艦発見の報告が入る。

4時45分:第二次攻撃を中止し再度兵装を艦隊用に変更開始。

5時20分:第一次攻撃隊が空母に戻り始める。第二次攻撃は第一次攻撃隊の収容後の7時30分に決定。

7時25分:米航空機の攻撃を受け蒼龍、赤城、加賀が被弾。攻撃用の弾薬に誘爆し大火災となる。この時米軍は低空の雷撃機を零戦の犠牲にして上空の爆撃機で空母甲板を攻撃する作戦をとった。

11時:残存攻撃機を集めた飛龍から反撃を開始し、米空母ヨークタウンを大破。珊瑚海戦で撃沈したと思われていたヨークタウンだが、ハワイに曳航され3日で修理して参戦していた。その後潜水艦の魚雷で曳航中のヨークタウンを撃沈。

14時:飛龍も攻撃を受け沈没。山口少将戦死。

連合艦隊は空母4隻、重巡洋艦1隻、航空機372機、熟練パイロット120人以上を一度に失った。

伝統的な年功序列人事のため、南雲中将は責任を取ることなく再編された第一航空機隊の司令長官に留任された。

ガダルカナル作戦とソロモン海戦

空母戦力の減少を補うため海軍は基地航空戦力の強化を図るためソロモン諸島のガダルカナル島に飛行場を建設した。

1942年8月7日:飛行場完成直前のガダルカナル島に米軍が上陸。飛行場を奪われる。陸戦隊250人と設営隊2500人はジャングルに逃れる。

8月8日:日本の第八艦隊が夜襲をかけ米重巡洋艦4隻を撃沈し勝利するも目標であった敵輸送船団を残してしまったためガダルカナル島の飛行場が完成してしまう。(第一次ソロモン海戦)

8月18日:陸軍一木支隊1000人が上陸。飛行場奪回に向け侵攻するも全滅。

8月23日〜25日:残りの一木支隊1500人を上陸させるため空母3隻を擁する第3艦隊をガダルカナル島に進出。待ち受けていたサラトガ、エンタープライズと空母対決となるも日本は空母1隻を失い上陸作戦も失敗。(第二次ソロモン海戦)

8月29日:川口支隊5400人が上陸。9月12日、飛行場に突撃するも1000人の死傷者が出て作戦失敗。

10月11日:第2師団と食料を運ぶため待機していた第6艦隊がサボ島沖で夜間の砲撃を受ける。この時米軍はレーダーを使った照準装置を実戦配備していた。

10月14日:第2師団1万人が上陸。24日、飛行場に突撃し2000〜3000人が死亡。生き残った兵は密林に逃れる。食糧は6日分しか持っていなかった。この時米軍はマイクロフォンを各地に設置し、日本軍の動きを正確に把握していた。

10月26日:ソロモン諸島北部海域で日米空母による海戦勃発。空母ホーネット撃沈、エンタープライズ中破の戦果をあげ、太平洋戦線の米空母はいなくなった。

11月13日:第38師団5000人が上陸。

11月12日〜15日:上陸作戦に連動し第三次ソロモン海戦勃発。米巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を撃沈するも、戦艦2隻、駆逐艦2隻、輸送船6隻を失う。以降、日本の輸送船はガ島飛行場からの空爆され、現地に食糧が届かなくなり、約2万人の残存兵は飢えと風土病に苦しむこととなる。

12月31日:御前会議にてガダルカナル島撤退が決定。

1943年2月1日〜7日:ガダルカナル島からブーゲンビル島に約1万人が撤退。日本軍が偽情報を電信し注意をそらしたため米軍は撤退に気付かなかった。また、ガダルカナル島攻防戦での日本側の死者は2万人以上でほとんどは餓死か疫病によるものだった。

ダンピール海峡の悲劇

日本軍は珊瑚海海戦で攻略できなかったニューギニアのポートモレスビーから飛来するラバウルへの爆撃に悩んでいた。

1943年3月2日:第51師団7000人をニューギニアのラエに輸送中、米豪連合軍爆撃機の空襲に遭い駆逐艦4隻、輸送船8隻を失い将兵3000人が溺死した。

い号作戦

1943年4月7日〜14日:ダンピールでの惨敗を受け、山本五十六長官は残存航空機400機をラバウルに結集し、ガダルカナル島在泊艦隊、ブナ在泊艦隊、ポートモレスビー飛行場、ラビ飛行場を航空爆撃した。大戦果との報告だったが、米軍の被害は少なかったと言われている。

海軍甲事件(かいぐんこうじけん)

米軍は暗号無線を解読し山本五十六長官のスケジュールを把握していた。4月15日ルーズベルト大統領が山本機撃墜作戦を承認。綿密な計画のもと山本機を待ち受け作戦を実行した。

1943年4月18日:視察のためラバウルからバラレに向かう山本長官が乗る陸上攻撃機がブーゲンビル島上空で撃墜される。

アッツ島の戦い

1943年5月12日:日本が占領していた米領アッツ島に米軍1万1000人が上陸。守備隊2500人は必死に抵抗するも、23日玉砕命令が出る。29日生き残った300人が最後の突撃を行ない玉砕。

キスカ島撤収作戦

アッツ島玉砕後同じアリューシャン列島にあるキスカ島に米軍が攻め込むのは時間の問題だったため、撤収作戦が実施された。

7月29日:第1水雷戦隊司令官木村少将は守備隊5200人を霧を利用して全員撤退させた。

8月14日:米軍がキスカ島上陸。日本軍がいると思い込み同士討ちをおこなっった結果死傷者100人以上を出した。

絶対国防圏

1943年9月30日:御前会議にて絶対国防圏を制定。防衛戦に移行。

学徒出陣

1943年10月21日:明治神宮外苑国立競技場で2万5000人の学生出陣壮行会実施。見送りのため女子学生5万人が集まった。

大東亜会議開催

1943年11月5日〜6日:日本で大東亜会議が開催され人種差別の撤廃と文化の交流を盛り込んだ大東亜共同宣言発表。

ギルバート諸島タラワ・マキンの戦い

1943年11月19日:米軍は200隻の大艦隊で上陸前の艦砲射撃を開始。

11月21日:米軍18000人がタラワに上陸。3日後占領される。日本軍の死者4300人、捕虜145人。

同日:米軍6500人がマキン島に上陸。4日後占領される。日本軍の死者550人、捕虜105人。

マーシャル諸島の戦い

1944年1月30日:米艦隊がクェゼリンに上陸前の空爆と艦砲射撃開始。

2月1日:クェゼリンに米軍上陸。2月4日占領される。日本軍の死者4800人、捕虜300人。

2月2日:ルオット、ナムル島に米国上陸。翌日占領される。日本軍の死者2540人、捕虜380人。

ブラウン環礁でも同様に上陸作戦が行われた。エンチャビでは死者1260人・捕虜16人。エニウェトクでは死者785人・捕虜23人。メリレンでは死者1451人・捕虜25人。

海軍乙事件(かいぐんおつじけん)

1944年1月31日:山本長官の死後連合艦隊司令長官になった古賀大将がパラオからフィリピンのミンダナオ島ダバオに向かう途中天候悪化のため消息不明となる。

古賀機乗員は全員殉職したが、福留中将機はセブ島に不時着。機密文書を回収され、米軍に連合艦隊の兵力と作戦の全貌を知られてしまう。

インパール作戦

インパール攻略を目的とした作戦は第15軍司令官牟田口中将の要請により多くの反対意見を押し切って決行された。

1944年3月8日:第15、第31、第33師団がそれぞれ別ルートでインパールを目指し出発。1ヶ月でインパールに到着したが、食糧・弾薬が尽きていて作戦実行は不可能だった。英軍はインパールまで日本軍を呼び込み補給路が伸び切った時点で攻撃する作戦だった。

7月8日:作戦中止に伴い撤退するも飢えと疫病のため次々と倒れ、退却路は白骨街道と呼ばれた。何の戦果も出せなかったインパール作戦では約2万5000人もの戦死者を出した。

マリアナ沖開戦

ソロモン以来しばらく海戦はなかったが、日米共に艦船を生産し艦隊を再編成するも日米の生産力の差が明らかになる。

1944年6月16日:米空母15隻、艦船500隻、航空機900機の大艦隊がマリアナ諸島を空爆。日本軍500機の航空隊がほぼ撃滅。

6月19日〜20日:小沢中将率いる第一機動艦隊が相手の手が届かないところから攻撃するアウトレンジ作戦で挑むも、航空機300機以上と空母3隻を失いサイパン島救援を断念。

この時米軍が使った新兵器がVT信管という飛行機に当たらなくても30m以内に近づくと爆発する対空砲火とレーダーによる迎撃で、日本軍機は次々と撃ち落とされた。

サイパン陥落

1944年6月11日〜13日:日本の委任統治領だったサイパン島に米空母機動部隊による空襲と艦砲射撃開始。

6月15日:米軍2万人が上陸。南雲中将率いる日本軍守備隊4万3000人は水際作戦で抵抗するも徐々に押され、島の北端にあるマッピ岬に逃れる。

7月6日:南雲中将は残った兵に玉砕命令を出し自決。

7月7日:日本軍3000人は米軍にバンザイ攻撃を仕掛け全滅。民間人約1万人がマッピ岬から投身自殺。

グアム陥落

1944年7月21日:米軍5万5000人がグアム島に上陸。

7月25日:小畑中将戦死により組織的な戦闘は終了。少数の残存部隊が抵抗を続けた。横井庄一氏は戦後27年も密林に隠れていた。

テニアン陥落

1944年7月24日:米軍5万4000人が日本の委任統治領テニアン島に上陸。

9月3日:戦闘終了。

ペリリュー島の戦い

ペリリュー島(現パラオ)は第一次世界大戦後日本の委任統治領になっていたが、飛行場があるため米軍による占領作戦が実施された。守備隊長の中川中将は事前に島民899人をパラオ本島に脱出させた。

1944年9月15日〜11月24日:米軍が上陸開始。米軍5万人対日本守備隊1万1000人の戦いとなった。

当初米軍は2〜3日で片付けると豪語していたが、日本軍は2ヶ月以上持ちこたえ米軍死傷者8000人の死闘となった。

台湾沖航空戦

1944年10月12日:ハルゼー大将率いる米大艦隊が台湾を空襲。日本軍は各地から約800機の航空部隊を出撃。

大本営はその戦果を空母19隻を含む多数の戦艦を撃破と発表。のちに誤報と判明するが、この戦いで未帰還300機、飛行不能300機と今後の作戦実行に大きな痛手となった。

レイテ沖海戦

フィリピン奪還を目指すマッカーサー率いる米艦隊に対し行われた。

1944年10月20日:米軍20万人がレイテ島に上陸。島の各地で戦いが行われ日本軍9万人が戦死した。

1944年10月23日〜25日:レイテ沖海戦勃発。小沢中将率いる機動部隊が北方から近づきハルゼー艦隊を引き付け、その間に戦艦大和や長門を含む栗田艦隊がレイテ湾に突入する作戦だった。予定どおりに推移していたが、レイテ島まであと80km地点で栗田艦隊が謎の反転をし作戦失敗。おとり作戦の成功を知らなかったためとも言われている。

10月25日:最初の特別攻撃が行われる。米空母1隻撃沈、2隻大炎上の成果を出す。フィリピンでは翌年1月までに530機が特攻隊として体当たり攻撃を実施。

10月24日:三菱重工長崎造船所で建造された武蔵は魚雷20本、爆弾10発以上を受けても9時間以上持ち堪えるも作戦前にシブヤン海で沈没。

松代移転計画

1944年11月11日:いざという時は長野県の松代(まつしろ)に首都機能を移せるよう工事開始。現在は地震観測所になっている。

ルソン島決戦

1945年1月9日:マッカーサー大将率いる米軍19万人がフィリピンルソン島に上陸。マニラでの市街地戦では米軍がビルごと砲撃したため10万人の住民が犠牲になったが、戦後日本軍が殺害したことにされた。ルソン島北部山岳地帯での攻防戦は終戦まで続くがこの戦闘で約22万人が戦死した。

硫黄島(いおうとう)決戦

サイパンからの爆撃機を援護するため戦闘機用の基地を必要としていた米軍は硫黄島を攻撃した。

1945年2月19日:米軍が上陸開始。栗林中将率いる日本軍守備隊2万1000人は玉砕覚悟で戦うこととなった。

2月23日:米軍が摺鉢山(すりばちやま)に星条旗を立てる。この時の写真が全米で配信される。

3月26日:栗林中将以下400人が最後の突撃をして組織的な抵抗は終わった。

沖縄決戦

1944年8月10日:米軍上陸に備え兵力再編成。守備隊は11万6000人になった。

8月22日:沖縄の小学生を九州に疎開させるための輸送船対馬丸が米軍潜水艦の魚雷を受け沈没。1500人が犠牲になり、内小学生は700人だった。

10月10日:沖縄に大規模空襲。

1945年3月25日:米軍が沖縄に艦砲射撃開始。

3月26日:米軍が慶良間列島に上陸。

4月1日:米軍が沖縄に上陸。

4月7日:戦艦大和が米軍攻撃のため海上特攻を行うも米軍機の波状攻撃により沈没。3700人が戦死。

5月30日:首里城から撤退。

6月23日:守備隊司令官牛島中将が自決し組織的な抵抗は終わった。日本側の死者は約19万人、負傷者は不明。米軍の死者は約2万人、負傷者は約8万人。

空襲

1944年11月24日:マリアナ諸島よりB 29の高高度爆撃開始。翌2月までは工場への爆撃だったが、3月から主要都市への焼夷弾による無差別爆撃開始。

1945年3月10日:東京大空襲で10万人死亡。以降主要都市も空襲を受け、全国の空襲での死者は50万人以上と推定される。

ルーズベルト大統領死去

1945年4月12日:ルーズベルト大統領死去。トルーマンが大統領に就任。

ドイツ降伏

1945年4月30日:ヒトラー自殺。

5月7日:ドイツが無条件降伏。

本土決戦

1945年6月8日:御前会議にて全軍特攻・一億玉砕による本土決戦基本方針が決定。

原爆実験成功

1945年7月16日:アメリカがニューメキシコ州ロスアラモスで原爆実験に成功。

ポツダム会談

1945年7月17日:米英ソによりベルリン郊外のポツダムで会談実施。

7月23日:ポツダム宣言発表。

原爆投下

1945年7月29日:テニアン島に原爆の部品と材料を運んだ米重巡洋艦インディアナポリスを日本の潜水艦が魚雷で撃沈。

8月6日:広島に濃縮ウラン型のリトルボーイ投下。死者14万人。

原爆ドーム写真

8月9日:小倉に向かうも雲が多かったため長崎にプルトニウム型のファットマン投下。死者7万4000人。

長崎

ソ連軍参戦

1945年8月8日:ソ連が日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦布告。

8月9日:満洲に侵攻開始。戦闘は終戦まで続いたが、戦後約70万人がシベリアに送られ強制労働に従事させられた。

終戦

1945年8月14日:御前会議にてポツダム宣言受諾を決定。連合国に打電。

8月15日12時:昭和天皇の玉音放送が流れ国民に敗戦が告げられる。

二重橋写真

8月18日:ソ連軍が占守島に侵攻。

9月2日:戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印式。艦上にはサスケハナ号の星条旗が飾られていた。

1946年1月1日:天皇の人間宣言。

5月3日:市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で東京裁判開廷。

11月3日:日本国憲法公布。

1948年12月23日:巣鴨プリズンでA級戦犯7人の死刑執行。

1949年10月1日:中華人民共和国成立。

1950年6月25日:朝鮮戦争勃発。

1951年9月8日:吉田首相が48ヶ国とサンフランシスコ平和条約調印。同時に日米安保条約に調印。

1952年4月28日:米国による占領が終了。

1968年6月26日:小笠原諸島返還。

1972年5月15日:沖縄返還。

1974年:ルバング島に潜伏していた小野田少尉帰国。